板垣 退助(いたがき たいすけ)は、高知県出身の政治家です。1837年5月21日に生まれました。1919年7月16日に82歳で亡くなりました。
よみ | いたがき たいすけ |
生年月日 | 1837年5月21日 |
没年月日 | 1919年7月16日 |
年齢 | 82歳没 |
職業等 | 政治家 |
出身地 | 高知 |
1861年(24歳)
江戸に出る。
1871年(34歳)
明治政府の参議になる。
1873年(36歳)
明治政府の参議を辞任。
1874年(37歳)
「民撰議院設立建白書」を提出。
1882年(45歳)
岐阜で遊説中に襲われる。
同じ頃に生まれた | ワイルド・ビル・ヒコック、津田仙、マリー・フランソワ・サディ・カルノー |
同じ頃に亡くなった | エルンスト・ヘッケル、箕作元八、アンドリュー・カーネギー |
職業等が同じ | 大隈重信、後藤象二郎、楠本正隆 |
出身地等が同じ | 中岡慎太郎、中江兆民、岩崎弥之助 |
板垣 退助 - Wikipedia
板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。幼名は猪之助。退助は通称。諱は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。号は無形(むけい)。栄典は従一位勲一等伯爵。土佐三伯の1人(ほかに後藤象二郎、佐々木高行)。明治維新の元勲。自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒